ひなまる|頑張るより、整える。京都から届ける整う暮らし

自宅での看取り

命の終い方を、娘と見つめるということ

93歳の祖母がいます。

85歳の頃は、パーソナルトレーニングに通い、
ひとりで電車にも乗り、
見た目もとても若く、70歳くらいに見えるような人でした。

 

85歳の頃

↓↓

 

 

大腿骨を何度か骨折しても、
また歩けるところまで戻るくらい、
本当に元気な祖母でした。

 

娘が生まれてからは、
ワンオペ育児と祖母のことが重なり、
私自身もなかなか大変な時期がありました。

 

リハビリも兼ねて、
「3ヶ月だけ」と思って施設に入ってもらったのですが、
その後、コロナ禍に入りました。

 

面会や外出が難しくなり、
思うように会えない時間が続きました。

 

施設で過ごす時間が長くなる中で、
認知のこと、気力のこと、身体のこと。

少しずつ変化していく祖母の姿を見ながら、
「やっぱり一度、家に帰ってきてもらおう」
と思うようになりました。

 

帰宅の日が決まっていました

車椅子ではあるけれど、
支えてもらいながら移動し、
排泄もできるくらいの状態。

 

そのつもりで準備していたのですが、
直前になって急に弱り、いったん病院へ入ることになりました。

 

でも、特別に何か治療をするというより、
来たる日に向けて、病院で過ごしているような状態でした。

 

それなら、家で過ごしてもらいたい。

 

そう思い、予定を早めて、
祖母には自宅へ帰ってきてもらいました。

 

祖母を自宅で看取るつもり

そう決めていても、
いざその時が近づくと怖くなって、
救急車を呼んだり、病院へ戻したくなったりすることもあるそうです。

 

その気持ちも、よく分かります。

 

命の終わりを目の前にすることは、
きれいごとではありません。

 

怖さもある。
迷いもある。
不安もある。

 

だからこそ、私は本を読んだり、
少しずつ心の準備をしたりしながら、
自分の中を整えてきました。

 

読んでよかった本は、

 

『家族と迎える平穏死』石飛幸三 著
『「死」を考えて今日を生き切る』玉置妙憂 著

 

です。

 

家族と迎える平穏死 石飛幸三著

 

 

自宅で看取ろうと思った理由

ひとつは、娘に見せたかったからです。

 

核家族での暮らしが当たり前になった今、
老いていくこと、弱っていくこと、
そして命が終わっていく過程を、
暮らしの中で見る機会はとても少なくなりました。

 

「死」を怖いものとして遠ざけるのではなく、
命の流れのひとつとして、
娘にも感じてほしいと思いました。

 

私自身も、祖父と父を見送っていますが、
老いて、少しずつ命を終えていく過程を
そばで見てきたわけではありませんでした。

 

だから、祖母の命の終い方を、
家で、日常の中で、
私自身も見届けたいと思ったのです。

 

年配の人と一緒に暮らす子は優しい

昔からそう言われますが、
それは本当にそうかもしれないと感じています。

 

できることが減っていく姿を見る。
手を貸すことを覚える。
待つことを覚える。
人はずっと元気なままではないと知る。

 

 

それは、言葉で教えるよりも、
暮らしの中で自然と伝わっていくことなのかもしれません。

 

もちろん、自宅での看取りが
すべての人にとって正解だとは思っていません。

 

家族の状況。
住まいの環境。
介護する側の体力や気持ち。
医療や介護のサポート体制。

 

それぞれに違います。

 

病院で見送ることも、
施設で見送ることも、
自宅で見送ることも、
どれが正解というものではなく、
その家族にとっての形があるのだと思います。

 

ただ、
「自宅で看取る」という選択肢があることは、
もっと知られてもいいのではないかと思っています。

 

 

命の終い方を、家族で整える

それは、特別なことではなく、
暮らしの延長にあるものなのかもしれません。

 

祖母が家に帰ってきてくれたことで、
私も、娘も、家も、
またひとつ大切な時間を過ごしています。

 

自宅での看取り

 

 

自宅で看取るということは、

命の終い方を、娘と一緒に見つめながら、

私自身の内側を整えていく時間でもありました。

 

長くなってしまいましたので、
また次回に続けたいと思います。

 

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